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2013年8月20日 (火)

坂口安吾も訪れた高麗神社で、日本国の歴史を想う

こうも暑いと心身共にパワーダウンしてくる。

こんなときこそ神聖なパワーがみなぎる高麗神社へお参りすれば、きっといいことがあるに違いない。とはいえ、暑すぎてでていく気力もなく、ならばと記事の続きを書くことにした。

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何かおもしろいネタはないものかと、高麗神社のウエブサイトを探っていくと、高麗神社を訪れた著名人の中に、坂口安吾の名前を発見。へえ、意外な人物が訪れているものだと、さらに調べを進めていくと、安吾が書いた書物、『安吾の新日本地理 高麗神社の祭の笛 武蔵野の巻』に行き当たった。

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この短編がすこぶるおもしろい内容で、へえっと唸った後に、たちまち奈良時代の歴史にどっぷり浸りきることとなった。そして見えてきたのは、奈良時代の日本のありよう、しいて云えばニッポンは如何にして日本になり得たのか。それを、安吾の著作によって気づかされることになった。おそるべし、坂口安吾。

安吾は云う。

おそらく高麗王若王が高麗に入植する以前にも、かなりの数の渡来人が日本各地に漂着し、渡来人部落を形作り、あるいは支配者の元で政治体制に組み込まれていったのではないか。

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高麗神社の歴史をひもといていくと、「駿河、相模、甲斐、上総・下総、常陸、下野の七ヶ国のコマ人(高句麗人)一千七百九十九人を武蔵の国に移してコマ郡を置いた」とある。

これは、すでに各地に土着していたコマ人を一ヶ所にまとめたにすぎない。

おそらくそれ以前に日本各地に土着していたコマ人たちは、単に部落民として中央政府の支配下に合流し、自らをコマ人、クダラ人、シラギ人と名乗ることなく、新天地の統治者に服従して事もなく生活していたに相違ない。

これに反し、すでに日本の諸地に土着しつつも、あえてコマ人と称し、異を立てておった七ヶ国のコマ人一千七百九十九人の方が、珍しい存在というべきであろう。彼らが土地を移してまとめられたという意味は、そういうところにあるのかもしれない。

ちなみにこの移住は、高句麗が新羅に滅ぼされて50年後におこった。

この安吾の考察は、まさに目から鱗だった。

日本が形作られる過程で、大陸文化は人も含めて、その多くが日本に同化していった。その出自を地下に潜り込ませ、確実に日本化の道を選んだ。しかし、ここ高麗においては、あえて孤立化し、中央政権と距離をおいたことで、1300年という歴史を生き延びることができたのではないか。

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以下も、安吾の説く歴史観。

つまり、中央政権を争う人々は、日本を統一しての首長でなければならないから、コマやシラギやクダラの人ではなく、日本人になる必要があった。また、それぞれの首長に所属する臣下の人々も日本渡来前の国を失う必要があった。

ところが日本に渡来土着しながらもあえてコマ人を称しておった一千七百九十九名というものは、あえてコマ人を称する故に、至って誰よりも日本の政争から離れた存在であったとも考えうるが、そのへんはなんら所伝がなく系図も破られているから見当が付かないのである。

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そんな高麗神社には、皇室関係者も数多く訪れ、お手植えのスギなどが参道脇に高々と茂り、うっそうとした気配を湛えている。

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安吾がここ高麗神社を訪れたのは、くしくも例大祭が行われる前日。お囃子の練習などを作家の檀一雄と一緒に見学したり、若き神官から神社に伝わる系図などを見せてもらい、有意義なひとときを過ごし、翌日、あらためて弁当を携えて例大祭当日の高麗神社を訪れるのである。

安吾と壇一雄、文藝春秋の編集者の中野君が神社に到着したとき、獅子舞のお囃子は、ちょうど裏山の若光の墓所と伝えられる山上へと上っていくところだった。

この墓所のある裏山は、若王と思われる人の屍体を埋めたところで、昔は神殿が建っていたという。そこが古くから墓所とつたえられる所らしく、聖天院にある若光墓は、単に供養塔か別のコマ王の墓か、またはほかの何かだろうと安吾は推測する。

裏山の神社へは、本殿の左側の山裾にのびる細道をたどっていくと、行き着くらしい。私たちは、山の神社の存在に気づかずに帰ってきてしまった。

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つまり、高麗神社には再度行かなければならないということである。

高句麗から渡ってきた渡来人を始祖に持つ謎に満ちた高麗神社。その扁額には、後世、高句麗の文字が添えられた。これは、唐と新羅の連合軍に滅ぼされた高句麗の後に興った高麗(こうらい)と区別するためにあえて付けられた「句」の字。

これを見ても、寺および同胞たちが如何にその出自にこだわり、滅ぼされた民族の誇りにこだわってきたかが、よくわかる。

寺の系図は、全文の前文部分が安吾によれば、ちょん切られてなくなっているそうだ。とはいえ、若光から続く子孫は鎌倉時代頃まで同族婚を続け、血脈にこだわり、若光の末裔によって寺は1300年の歴史を保ってきた。

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高麗神社の宮司は、代々修験道に帰依し、半ば山伏のような隠棲暮らしの中で始祖を祀り、1300年という途方もない時間を、ひっそりとしかし野太く生き抜いてきた。

現在の宮司は60代目、高麗(こま)文康さん。

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本殿の前には平和を願って捧げられた数多くの千羽鶴が美しく飾られている。

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境内にはご神木の桜。その桜さえ1300年間のほんの数十年の歴史を見てきたに過ぎない。

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神社の背後の山は神社を護るご神体のような存在だ。

「この村の伝説によれば、コマ王若光は老齢に至って白髭がたれ、ために白髭さまと慕われたという。彼を祀ったコマ神社は白髭神社の宗家でもある」

味わい深い安吾の随筆、『高麗神社の祭の笛』。一読した後に訪れると、きっとその感慨を異にするはずだ。

神社に流れる冷涼な空気感。それはあえて孤高の道を選び、慎ましくも太く生きた、一族の潔さの表れなのかもしれないと、ふと思った。

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